2015年9月26日土曜日

神戸決戦⁈ イングラムin新長田

98式イングラムセットアップ
  
やはりデカイ!(手前は野明ではない…)

消防車も出動!

兵庫県警も出動!

ついでに鉄人28号まで⁈
首都決戦の次は神戸決戦か???
エライコッチャ

とりあえず特車2課(カ)レーでも食べる⁈

2015年9月22日火曜日

善光寺の謎(その4)四門四額

江戸時代の略絵図にはほぼすべからく
四門 東門-定額山善光寺
   南門-南命山無量壽寺
   北門-北空山雲上寺
   西門-不捨山浄土寺
と書かれている

しかし略絵図には本堂の南側に山門と仁王門が描かれているだけで今も門はこの2つだけ
もっと古い記述をみるとさらに南側の大本願の横に二手門があったという
しかし、それがあったとしても「定額山」と掲げられているのは三つある門の中でいちばん北の門ということになる

そもそも本当に四つの門があったのか?

そういえば、仁王門と山門の間に旧如来堂跡の地蔵菩薩があった
上の略絵図にも石畳の西側にお地蔵さんがある
そこに如来堂があった時の絵図を探せば何かわかるかも?

調べてみれば古い善光寺の絵は一遍聖絵(1222)にあった
回廊は描かれているがその外側の塀に設けられた門は正面以外はわからない…

別の絵を探しているとそれは善光寺縁起絵伝の中にあった
縁起絵伝は数多くの種類があり一部の絵伝には善光寺そのものが描かれている

江戸時代中期につくられたと思われる豊前善光寺所蔵の縁起絵伝では
明らかに江戸後期の伽藍配置とは違い、如来堂が回廊に囲まれて、その外側に巡らされた塀には門が設けられている(少なくとも三方に…)
しかし、やはり後ろ側に門があるかどうか雲に隠れてよくわからない…
う~ん…雲…邪魔…

他にもないか探してみると…
あったぁ!!!
明らかに四方に門がある
小山善光寺蔵 善光寺参詣曼荼羅図!

やっぱり、四方に門があったのは間違いなさそうだ!

善光寺道名所図会には
「善光寺に四門四号という事あり、曰く
 東 光明遍照門 定額山善光寺
 南 十方世界門 南命山無量壽寺
 西 念仏衆生門 不捨山浄土寺
 北 摂取不捨門 比空山雲上寺」
ん? 四門四号???
「四門四額」じゃないの???
んん? 単なる東西南北の門ではなくて門にも名前が付いている???
んんん? 比空山???
今までずっと「北空山」ってなってたけど???
わからんことだらけ…

もっと知りたくて、いろいろ古い文献を探してみた

信濃史磧、下(信濃新聞社 明治43、大正元年)では、
「伽藍ができたのはいつかよくわからないけど、金堂の四門に勅額をいただき、東門に善光寺、南門に無量壽寺、西門に浄土寺、北門に雲上寺の寺号を得た」とある
要は、天皇に四つの寺の名前の額を書いてもらったということか
「しかし、山の上に建てられた寺ではないので(定額山という)山号が与えられたのは、官寺(定額寺)となった平安時代の慣習によるものではないか」
「始め金堂の建築は東を正門としていたため、(正門に付けられた昔からの寺名である)「善光寺」に官寺を意味する「定額山」という山号をつけたのではないか」と書かれている
それが、「(源頼朝が行った)文治の再建で、今のように南面を正とした」とのことである
「このことは(おそらく最初のまとまった寺史である)芋井三宝記にも記載されている」
(「 」内は信濃史磧意訳)
どうも、善光寺という寺名は勅額をいただく前からあったらしい
その時は東が正門であったので、正門の上に「善光寺」という勅額を掲げた
他の門にも、寺号の勅額をいただいた
火事ですべて消失したので、源頼朝が再建した際に南を正面とした
そして、その時、正門である山門に「定額山」の額を掲げた
他の門は造らなかったので、「定額山」の門だけが今に残っている
ということのようだ

芋井三宝記(江戸時代末期)を見てみると
四門に勅額を賜った事や、東門を定額山、南門を南命山、西門を不捨山、北門を北空山といっていたことや、また、東門を光明遍照門、南門を十方世界門、西門を念仏衆生、北門を摂取不捨門といっていたことも書かれている
やっぱり、北門は「比空山」ではなくて「北空山」が正しそうだが…

四号というい言葉は出てくるけど四額という言い方は見あたらないなぁ…
まぁ、額が掛かっていたから間違いではないか…

でも、この本、無茶苦茶読みづらくて詳しい内容まで読み切れないっ!
たぶん解読したら「いわれ」とかいろいろわかることはあるだろうに…
誰か、現代語訳をしてくれ~!!!

善光寺の謎(その3)仁王像の阿吽形の位置

善光寺の仁王門では左右に仁王像が睨みを利かせている
しかし、通常は向かって右側に阿形、左側に吽形であるのに、逆に置かれている
「阿」というのはサンスクリット語でも日本語でも最初の文字で始まりを象徴する
同じく「吽」は最後の文字で終わりを象徴しているという
また日本では、左右ではなく、太陽が昇る東側が始まりの阿形で太陽の沈む西側が終わりの吽形であるという考え方もがある
一方、陰陽五行説に関係していて、万物の始まりの日とされている冬至の朝日を浴びて浮かび上がるのが左手の阿像で、日の入りの日差しを浴びるのが吽像なのだともいわれたり、果てはお雛様のごとく左上位説まで飛び出している(しかし阿形が上位とまで言えるのか?)

いずれにしても、善光寺の仁王像は向かって左側(西側)に阿形、右側(東側)に吽形で通常とは逆配置である
仁王門の仁王像の原型(善光寺HPより)

この仁王像は東大寺のものを模して作られたといわれ、東大寺の法華堂の金剛力士像(奈良時代:710-794)、南大門の金剛力士像(仁王像)(1203)も左右逆配置である
全国に左右逆配置の仁王像は多々あるが、善光寺を模して作られたと言われるものが多く、どうやら東大寺の金剛力士像がルーツであるように思える

また、奈良県桜井市の長谷寺に伝わる銅板法華説相図(698制作説が有力)に表された金剛力士像も左右逆配置である
銅板法華説相図(wikipediaより)

ただ、東大寺より古いと言われる法隆寺の金剛力士像(711)は正配置であるので、単に古いものが逆配置とも言い切れないのか…

奈良時代には今ほど厳格なルールがなく配置も自由だったという意見も聞くけど、作法や教義にこだわることの多い仏教でそんなこと考えられるかな?

もう少し調べてみると、金剛力士はもともとお釈迦様の身辺に在って仏法を守護する役目で、執金剛と呼ばれ、一体であったらしい
東大寺法華堂執金剛像(wikipediaより)

それがインドで二体に分かれ、当初は甲冑を身につけていたが、後に中国で裸体に変わったとか
つまり原型は甲冑を身につけている方?
像自体は法隆寺の方が先に造られたのかもしれないけど、東大寺法華堂の方がより古い時代のものを模して造られたとも考えられる
ということは善光寺式(東大寺式?)の配置がもともとの形だったのでは?
それが中国、日本と渡るうちにその地(最終的には日本?)の考え方が取り入れられて逆に配置されるようになったのではないだろうか

善光寺の謎(その2)七名所…七不思議?

善光寺には七名所といわれるものがある
雑誌「長野」第187号(長野郷土史研究会)によると
「嘉永二年(1849)、尾張の豊田利忠(康園)によって「善光寺道名所図会」が刊行された。実施踏査による良心的な著述で、広く世に普及した。(中略)これが、「善光寺七名所」が出版物に掲載されたはじめであろう。この本は広く読まれたので、「七名所」を普及するのに役立った。」
ということである
しかし、「善光寺道名所図会」のデジタルアーカイブを探してみたが、七社七橋七井七清水七塚までしか出てこない
いくつかの七名所がいわれていたけど、どうも最初から七種類四十九名所あったわけではなさそうだ

ところが、雑誌「長野」第54号(長野郷土史研究会)では
「江戸時代中頃に大勧進住職等順大僧都が善光寺に特に因縁が深いものとして作った四十九名所がある。七社・七橋・七清水・七小路・七塚・七池・七寺であり、」と記載され、
また、雑誌「長野」第80号(長野郷土史研究会)では
「大正十二年(一九二三年)七月一日、一町三ヵ村が合併した旧長野市の善光寺を中心とした地域に、七寺・七社・七橋・七清水・七小路・七塚・七池という、四十九ヵ所の名所のあったことが一般に知られている。」と記載されている

江戸中頃からそもそも七種類の七名所があったのか、江戸末期の嘉永二年には五種類しかなかったのか
結局いつから四十九ヶ所あったのかはよくわからないが、全国に広く知れ渡ったのは、最初から四十九ヶ所ではなかったようだ

また、どうも文献によって取り上げる名所が違っている
それぞれの分野で七ヶ所ずつその時有名だった名勝(七名所)を選んでみましたってところだろうか…

ところで、この七名所のことを七不思議といっている記述を見かけることがあるけど、いろいろと調べてみたが、古来、そんな言われ方はしてこなかったように思う
いったいいつから七不思議という人が出てきたのか、何をもって不思議というのか、七不思議と言われること自体が不思議なんだけど?

善光寺の謎(その1)丁石と境内

善光寺の表参道には丁石が設置されている
長野駅の新幹線改札口には十八丁の丁石
善光寺まで辿っていくとなぜか三丁までで一丁、二丁の丁石が無い!
何故???

そもそも善光寺の本堂はもとは仲見世通りの中程にあったはず
しかしその場所は三丁の丁石からは一丁ほどしか離れていない
ということはこの丁石は現在の本堂からの距離ということ
建立当初からあったわけではなさそうだ

調べてみると、この丁石というのは明治21年に国鉄長野駅を作る際に阿弥陀如来が立てた四十八願の中でも特に重要な「弥陀の十八願」にちなんで善光寺本堂から十八丁のところに駅舎を建設したとのこと

なんだ、昔からあったわけじゃないんや…
意外と歴史浅いやん!
一丁、二丁の丁石は境内の中になるから作らなかった(作れなかった?)そう
そりゃ、近年になって後から設置する道標なのに、恐れ多くも1400年の歴史を誇るお寺の神聖な境内を掘り返すのは許されんわなぁ?
たぶん…

というか…そもそもどっからが境内地???
仁王門があるところからかと思ったけど、その南側も古そうな石畳が続いてるしなぁ…
古い縦貼りの石畳が始まるところからかとも思ったけど、その手前に古い石灯篭があるしなぁ?
そのまた手前には横貼りの石畳があるし…

江戸末期、明治初期の善光寺略絵図を見てみると本堂から縦張りの石畳が仁王門の南の大本願の横まで続いていてその両側には塀が巡らされていて、そこから石階段を下りると大門町、横手町となっている
一番上の絵図は「嘉永二年(1849)、尾張の豊田利忠(康園)によって観光された「善光寺道名所図会」に描かれていたものだけど、そこには「二天門(先年焼失して、礎石だけが残っている)東側に高札がある(松代侯が建てた)。西側に番所がある。参詣の人々で宿坊へ入る人は、ここで案内をする。本堂からこの礎石まで、長さ4丁、幅3間余の敷石が、碁盤の目のように敷き詰められている。これは伊勢白子(しろこ)の大竹屋某が寄進したという。」という記述がある。
つまり、本堂が現在地に移されてからの境内は長手石貼りの続いているところ(もともと二天門があったところ)からのようだ
(じゃ、左右と奥はどこまでだ?…絵図が雲に隠れてよくわからん…)
ちなみに、どこまで実際の姿を正確に描いているかということはあるけど、順を追って見て行くと境内に仲見世や町家?が拡大していったのがよくわかる

境内の中をよく見てみると、今は無い建物に気が付く
定念仏?、年神宮?、骨堂?、弁天?、アキハ?、天王宮?、クマノ?、スワ?
六地蔵の横の大仏は今と反対側?
今では無くなっている院や坊、エンマ堂、ゼンドウ堂

その痕跡を探そうとしても、今はどこにあるのか絵図ではよくわからない
そんな時に内閣府の防災情報のページから興味深い地図を見つけた
弘化4(1847)年の善光寺地震の地震被害図であるが、当時の境内や街の状況がよくわかる貴重な資料だよね

これを見ると境内の北側には湯福川が流れていてその北側には池があったよう
今の県道37号線とほぼ一致する
東側も湯福川が境かと思ったが東参道の起点なる定ヶ橋までずっと境内であったとは思えない
西側になるとなおさら境内と町との境界があやふやである
元善町、東之門町や西之門町など境内の中から町ができてきた経緯もあるようなので東西の境界は結局よくわからない…

2015年9月21日月曜日

国宝松本城と旧開智学校

現在、天守閣を残す城は日本で12箇所しかなく、そのうち五重の天守は姫路城とこの松本城だけらしい
しかも実は6階建てだと!
さて、どこで1階分ごまかしているんだろう?
壁の下側は黒の下見板張り、上部は真っ白な漆喰塗り
この見事なコントラストも惚れ惚れするねぇ!

っつうか…待ち時間120分?
ありえん!!!

松本城は諦めて、すぐ近くの旧開智学校へと足を伸ばす
ん?
似たような感じの新旧建物!
手前が今の開智小学校で奥が旧開智小学校

今日は無料なんだって!
ラッキー!!!
日本最古(級?)の小学校だそうで、各窓に舶来のギヤマン(ガラス)が取り付けられたため、ギヤマン学校とも呼ばれていたらしい
もともとは女鳥羽川畔にあったものがこの地に解体移設復元されたとのこと
正面の入り口上部を見ると…
んん?
天使の下には龍?
和洋折衷、何でもありだな(苦笑)
なんとなく懐かしい教室
講堂

さあ、十分堪能したところでぼちぼち帰るかぁ
松本市周遊バスタウンスニーカー号
本日渋滞のためちょい遅れで旧開智学校前に到着
だだ遅れで松本駅に到着
帰りの電車に間に合うか少し不安だった
連休は早めの行動に限ります…

松本市散策

善光寺を堪能したので、今日は松本へ

名古屋行き方向の方が長野行き方向よりも姨捨の雄大な景色がよく見える

ここは善光寺へ抜ける北国街道西街道沿いの中町商店街
江戸末期や明治時代に大火に見舞われたため「なまこ壁の土蔵づくり」の家が建ち並んだそう

ん!
美味しそうなそば処見っけ♪

お腹も満たされたので、さて、国宝でも拝みに行くっか?
途中、縄手通りに差し掛かると…カエル神社?
縄手とは、松本城の南惣堀と女鳥羽川に挟まれた「縄」のように細く長い土「手」に由来して付けられた名前だとか
その女鳥羽川には綺麗な川でしか生きていけないカジカガエルがたくさん住んでいたらしい
再びカジカガエルの住めるような綺麗な川になることを願ってイメージキャラクターに選んだそうな
江戸時代の城下町松本の風景を再現した武家屋敷長屋門風の町並みは趣があってちょいといい感じ♪

2015年9月20日日曜日

善光寺名勝 四十九名所(七名所)

善光寺には江戸時代中頃に大勧進住職等順大僧都が善光寺に特に因縁が深いものとして作った四十九名所がある
【寺・社・橋・清水・小路・塚・池】七種類の名所がそれぞれ七ヶ所ずつあって七×七=四十九名所らしいが単に七名所という人もいる

七寺
・来迎院十念寺
・時丸禅寺
・菩提山無常院
・正覚院
・往生院
・光明院妙観寺(現存せず)
・阿弥陀院宗光寺(現存せず)

七社
・美和神社
・湯福神社
・武井神社
・妻科神社
・加茂神社
・木留神社
・柳原神社

七橋
・駒返橋
・済度橋
・淀ケ橋
・返り橋
・鶴ケ橋
・独寝橋
・瀬木先橋

七清水
・箱清水
・一盃清水
・夏目清水
・瓜割清水
・傾城清水
・鳴子清水
・柳清水

七小路
・法然小路
・羅漢小路
・桜小路
・虎小路
・上堀小路
・下堀小路
・花屋小路

七塚
・兄弟塚
・柏崎塚
・苅萱塚
・時丸塚
・虎ケ塚
・行人塚
・姫塚

七池
・阿闇梨池
・来間池(くるまいけ)
・狐池
・無方池
・有方池(現存せず)
・花ケ池
・鶴ノ目池

(公財)ながの観光コンベンションビューロー様
ながの観光ポケットパンフより転載(感謝)

さすがに全部回るのは無理だぁ〜
ということでいくつか七福神巡りのついでに回れる範囲で回ってみた

往生院
法然が建立したといわれる
善光寺が火災に遭うたびにここが本尊の権堂(仮堂)となっていたという
だからこの辺りは権堂町

十念寺
源頼朝の伝説が残る寺
大仏堂には出世大仏が座っている
同じ境内には七福神福禄寿の秋葉神社がある

武井神社
善光寺の三鎮守のひとつで家内安全、商売繁盛の神様
七社のうちということは西宮神社のえべっさんより商売繁盛するのかな?

湯福神社
善光廟があった

駒返橋は山門の手前にある
源頼朝の馬の蹄が引っ掛かって動けなくなったので頼朝はここから本堂まで歩いて参拝したという

鳴子清水
清水は山裾に涌き出ることが一般的だけどここは珍しく町中にある
夏でも冷たく枯れることなくここ北国街道を通る善光寺の参拝者の飲み水のために使われていたとのこと

法然小路
賑やかな仲見世通りのひとつ東の小路
宿坊が集まっていて人気が少なくなった夕暮れ時はほのかな灯りががともり趣がある…はずなんだけどなぁ…
今は工事中

兄弟塚
義経の身代わりとなった佐藤兄弟を供養するため母の梅唇尼がたてたものといわれている

苅萱塚
西光寺にあり苅萱道心の息子道念が父の菩提安かれと塚を建立した

阿闍梨池は本覚院にある
むかし皇円阿闍梨という偉いお坊さんが永遠の命を得るために蛇の姿になってこの池に住んだとか
一説には、阿闍梨は龍神に姿を変えて静岡の桜が池に住んでいて、旧暦1月18日から25日まで善光寺にこの池を通じて参詣に来るといわれ、その時だけ池の水は満杯になるそうな

花ケ池は世尊院にある
昔話は如来様への閼伽(供養)の水として使われていたらしい

池といっても井戸だけどね

鶴ノ目池は秋葉神社の横にある
昔この辺りを流れていた川の流れが鶴に似ていて鶴の目の位置にあった池…と言われてもやっぱりこれも井戸だけどなぁ