と書かれている
しかし略絵図には本堂の南側に山門と仁王門が描かれているだけで今も門はこの2つだけ
もっと古い記述をみるとさらに南側の大本願の横に二手門があったという
しかし、それがあったとしても「定額山」と掲げられているのは三つある門の中でいちばん北の門ということになる
そういえば、仁王門と山門の間に旧如来堂跡の地蔵菩薩があった
上の略絵図にも石畳の西側にお地蔵さんがある
そこに如来堂があった時の絵図を探せば何かわかるかも?
調べてみれば古い善光寺の絵は一遍聖絵(1222)にあった
別の絵を探しているとそれは善光寺縁起絵伝の中にあった
縁起絵伝は数多くの種類があり一部の絵伝には善光寺そのものが描かれている
江戸時代中期につくられたと思われる豊前善光寺所蔵の縁起絵伝では
明らかに江戸後期の伽藍配置とは違い、如来堂が回廊に囲まれて、その外側に巡らされた塀には門が設けられている(少なくとも三方に…)
しかし、やはり後ろ側に門があるかどうか雲に隠れてよくわからない…
う~ん…雲…邪魔…
他にもないか探してみると…
あったぁ!!!
明らかに四方に門がある
やっぱり、四方に門があったのは間違いなさそうだ!
縁起絵伝は数多くの種類があり一部の絵伝には善光寺そのものが描かれている
江戸時代中期につくられたと思われる豊前善光寺所蔵の縁起絵伝では
明らかに江戸後期の伽藍配置とは違い、如来堂が回廊に囲まれて、その外側に巡らされた塀には門が設けられている(少なくとも三方に…)
しかし、やはり後ろ側に門があるかどうか雲に隠れてよくわからない…
う~ん…雲…邪魔…
他にもないか探してみると…
あったぁ!!!
明らかに四方に門がある
小山善光寺蔵 善光寺参詣曼荼羅図!
やっぱり、四方に門があったのは間違いなさそうだ!
善光寺道名所図会には
「善光寺に四門四号という事あり、曰く
東 光明遍照門 定額山善光寺
南 十方世界門 南命山無量壽寺
西 念仏衆生門 不捨山浄土寺
北 摂取不捨門 比空山雲上寺」
「善光寺に四門四号という事あり、曰く
東 光明遍照門 定額山善光寺
南 十方世界門 南命山無量壽寺
西 念仏衆生門 不捨山浄土寺
北 摂取不捨門 比空山雲上寺」
ん? 四門四号???
「四門四額」じゃないの???
んん? 単なる東西南北の門ではなくて門にも名前が付いている???
んんん? 比空山???
今までずっと「北空山」ってなってたけど???
わからんことだらけ…
「四門四額」じゃないの???
んん? 単なる東西南北の門ではなくて門にも名前が付いている???
んんん? 比空山???
今までずっと「北空山」ってなってたけど???
わからんことだらけ…
もっと知りたくて、いろいろ古い文献を探してみた
信濃史磧、下(信濃新聞社 明治43、大正元年)では、
「伽藍ができたのはいつかよくわからないけど、金堂の四門に勅額をいただき、東門に善光寺、南門に無量壽寺、西門に浄土寺、北門に雲上寺の寺号を得た」とある
要は、天皇に四つの寺の名前の額を書いてもらったということか
「しかし、山の上に建てられた寺ではないので(定額山という)山号が与えられたのは、官寺(定額寺)となった平安時代の慣習によるものではないか」
「始め金堂の建築は東を正門としていたため、(正門に付けられた昔からの寺名である)「善光寺」に官寺を意味する「定額山」という山号をつけたのではないか」と書かれている
それが、「(源頼朝が行った)文治の再建で、今のように南面を正とした」とのことである
「このことは(おそらく最初のまとまった寺史である)芋井三宝記にも記載されている」
(「 」内は信濃史磧意訳)
どうも、善光寺という寺名は勅額をいただく前からあったらしい
その時は東が正門であったので、正門の上に「善光寺」という勅額を掲げた
他の門にも、寺号の勅額をいただいた
火事ですべて消失したので、源頼朝が再建した際に南を正面とした
そして、その時、正門である山門に「定額山」の額を掲げた
他の門は造らなかったので、「定額山」の門だけが今に残っている
ということのようだ
芋井三宝記(江戸時代末期)を見てみると
四門に勅額を賜った事や、東門を定額山、南門を南命山、西門を不捨山、北門を北空山といっていたことや、また、東門を光明遍照門、南門を十方世界門、西門を念仏衆生、北門を摂取不捨門といっていたことも書かれている
やっぱり、北門は「比空山」ではなくて「北空山」が正しそうだが…
四号というい言葉は出てくるけど四額という言い方は見あたらないなぁ…
まぁ、額が掛かっていたから間違いではないか…
でも、この本、無茶苦茶読みづらくて詳しい内容まで読み切れないっ!
たぶん解読したら「いわれ」とかいろいろわかることはあるだろうに…
誰か、現代語訳をしてくれ~!!!
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