雑誌「長野」第187号(長野郷土史研究会)によると
「嘉永二年(1849)、尾張の豊田利忠(康園)によって「善光寺道名所図会」が刊行された。実施踏査による良心的な著述で、広く世に普及した。(中略)これが、「善光寺七名所」が出版物に掲載されたはじめであろう。この本は広く読まれたので、「七名所」を普及するのに役立った。」
ということである
ところが、雑誌「長野」第54号(長野郷土史研究会)では
「江戸時代中頃に大勧進住職等順大僧都が善光寺に特に因縁が深いものとして作った四十九名所がある。七社・七橋・七清水・七小路・七塚・七池・七寺であり、」と記載され、
また、雑誌「長野」第80号(長野郷土史研究会)では
「大正十二年(一九二三年)七月一日、一町三ヵ村が合併した旧長野市の善光寺を中心とした地域に、七寺・七社・七橋・七清水・七小路・七塚・七池という、四十九ヵ所の名所のあったことが一般に知られている。」と記載されている
江戸中頃からそもそも七種類の七名所があったのか、江戸末期の嘉永二年には五種類しかなかったのか
結局いつから四十九ヶ所あったのかはよくわからないが、全国に広く知れ渡ったのは、最初から四十九ヶ所ではなかったようだ
また、どうも文献によって取り上げる名所が違っている
それぞれの分野で七ヶ所ずつその時有名だった名勝(七名所)を選んでみましたってところだろうか…
ところで、この七名所のことを七不思議といっている記述を見かけることがあるけど、いろいろと調べてみたが、古来、そんな言われ方はしてこなかったように思う
いったいいつから七不思議という人が出てきたのか、何をもって不思議というのか、七不思議と言われること自体が不思議なんだけど?
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