2015年9月22日火曜日

善光寺の謎(その3)仁王像の阿吽形の位置

善光寺の仁王門では左右に仁王像が睨みを利かせている
しかし、通常は向かって右側に阿形、左側に吽形であるのに、逆に置かれている
「阿」というのはサンスクリット語でも日本語でも最初の文字で始まりを象徴する
同じく「吽」は最後の文字で終わりを象徴しているという
また日本では、左右ではなく、太陽が昇る東側が始まりの阿形で太陽の沈む西側が終わりの吽形であるという考え方もがある
一方、陰陽五行説に関係していて、万物の始まりの日とされている冬至の朝日を浴びて浮かび上がるのが左手の阿像で、日の入りの日差しを浴びるのが吽像なのだともいわれたり、果てはお雛様のごとく左上位説まで飛び出している(しかし阿形が上位とまで言えるのか?)

いずれにしても、善光寺の仁王像は向かって左側(西側)に阿形、右側(東側)に吽形で通常とは逆配置である
仁王門の仁王像の原型(善光寺HPより)

この仁王像は東大寺のものを模して作られたといわれ、東大寺の法華堂の金剛力士像(奈良時代:710-794)、南大門の金剛力士像(仁王像)(1203)も左右逆配置である
全国に左右逆配置の仁王像は多々あるが、善光寺を模して作られたと言われるものが多く、どうやら東大寺の金剛力士像がルーツであるように思える

また、奈良県桜井市の長谷寺に伝わる銅板法華説相図(698制作説が有力)に表された金剛力士像も左右逆配置である
銅板法華説相図(wikipediaより)

ただ、東大寺より古いと言われる法隆寺の金剛力士像(711)は正配置であるので、単に古いものが逆配置とも言い切れないのか…

奈良時代には今ほど厳格なルールがなく配置も自由だったという意見も聞くけど、作法や教義にこだわることの多い仏教でそんなこと考えられるかな?

もう少し調べてみると、金剛力士はもともとお釈迦様の身辺に在って仏法を守護する役目で、執金剛と呼ばれ、一体であったらしい
東大寺法華堂執金剛像(wikipediaより)

それがインドで二体に分かれ、当初は甲冑を身につけていたが、後に中国で裸体に変わったとか
つまり原型は甲冑を身につけている方?
像自体は法隆寺の方が先に造られたのかもしれないけど、東大寺法華堂の方がより古い時代のものを模して造られたとも考えられる
ということは善光寺式(東大寺式?)の配置がもともとの形だったのでは?
それが中国、日本と渡るうちにその地(最終的には日本?)の考え方が取り入れられて逆に配置されるようになったのではないだろうか

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