2015年9月22日火曜日

善光寺の謎(その1)丁石と境内

善光寺の表参道には丁石が設置されている
長野駅の新幹線改札口には十八丁の丁石
善光寺まで辿っていくとなぜか三丁までで一丁、二丁の丁石が無い!
何故???

そもそも善光寺の本堂はもとは仲見世通りの中程にあったはず
しかしその場所は三丁の丁石からは一丁ほどしか離れていない
ということはこの丁石は現在の本堂からの距離ということ
建立当初からあったわけではなさそうだ

調べてみると、この丁石というのは明治21年に国鉄長野駅を作る際に阿弥陀如来が立てた四十八願の中でも特に重要な「弥陀の十八願」にちなんで善光寺本堂から十八丁のところに駅舎を建設したとのこと

なんだ、昔からあったわけじゃないんや…
意外と歴史浅いやん!
一丁、二丁の丁石は境内の中になるから作らなかった(作れなかった?)そう
そりゃ、近年になって後から設置する道標なのに、恐れ多くも1400年の歴史を誇るお寺の神聖な境内を掘り返すのは許されんわなぁ?
たぶん…

というか…そもそもどっからが境内地???
仁王門があるところからかと思ったけど、その南側も古そうな石畳が続いてるしなぁ…
古い縦貼りの石畳が始まるところからかとも思ったけど、その手前に古い石灯篭があるしなぁ?
そのまた手前には横貼りの石畳があるし…

江戸末期、明治初期の善光寺略絵図を見てみると本堂から縦張りの石畳が仁王門の南の大本願の横まで続いていてその両側には塀が巡らされていて、そこから石階段を下りると大門町、横手町となっている
一番上の絵図は「嘉永二年(1849)、尾張の豊田利忠(康園)によって観光された「善光寺道名所図会」に描かれていたものだけど、そこには「二天門(先年焼失して、礎石だけが残っている)東側に高札がある(松代侯が建てた)。西側に番所がある。参詣の人々で宿坊へ入る人は、ここで案内をする。本堂からこの礎石まで、長さ4丁、幅3間余の敷石が、碁盤の目のように敷き詰められている。これは伊勢白子(しろこ)の大竹屋某が寄進したという。」という記述がある。
つまり、本堂が現在地に移されてからの境内は長手石貼りの続いているところ(もともと二天門があったところ)からのようだ
(じゃ、左右と奥はどこまでだ?…絵図が雲に隠れてよくわからん…)
ちなみに、どこまで実際の姿を正確に描いているかということはあるけど、順を追って見て行くと境内に仲見世や町家?が拡大していったのがよくわかる

境内の中をよく見てみると、今は無い建物に気が付く
定念仏?、年神宮?、骨堂?、弁天?、アキハ?、天王宮?、クマノ?、スワ?
六地蔵の横の大仏は今と反対側?
今では無くなっている院や坊、エンマ堂、ゼンドウ堂

その痕跡を探そうとしても、今はどこにあるのか絵図ではよくわからない
そんな時に内閣府の防災情報のページから興味深い地図を見つけた
弘化4(1847)年の善光寺地震の地震被害図であるが、当時の境内や街の状況がよくわかる貴重な資料だよね

これを見ると境内の北側には湯福川が流れていてその北側には池があったよう
今の県道37号線とほぼ一致する
東側も湯福川が境かと思ったが東参道の起点なる定ヶ橋までずっと境内であったとは思えない
西側になるとなおさら境内と町との境界があやふやである
元善町、東之門町や西之門町など境内の中から町ができてきた経緯もあるようなので東西の境界は結局よくわからない…

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